ESPRIT

臨床の美學

日々の暮らしや大きな決断の場面で、私たちはどうしても「損をしないためには」「失敗を避けるには」と、リスクばかりに目が向いてしまうことがあります。しかし、実際に体験していないものを良し悪しで判断するのはとても難しいことです。だからこそ、「はじめて」に向き合うときには、“等身大”の自分がどう感じるかを大切にする――私はそのスタンスを、歯科臨床の場でも心がけています。

ここでいう“等身大”とは、ただ「ありのまま」でいることとは少し違います。

過去や未来ばかりにとらわれず、「いま」の自分を見ること。好奇心をもって、自分が「もっと知りたい」と思えるテーマを見つけること。「ペルソナを演じている自分」と「オーセンティックな自分」の両方を客観的に見つめること。このような行為を積み重ねるうちに、生き生きとした自分なりの感覚が育ってくるように思います。

現代社会では効率や合理性が重視され、一律の枠組みが整備されています。医療の現場でも、システム化が進んでいます。もちろん、それは多くの患者さんの安全と安心を支えるうえで必要なものです。しかし、私が歯科医師としてめざすのは、それだけでなく「一人ひとりの“心地よさ”」に焦点を当てた治療を届けること。患者さんの感じ方や価値観に寄り添い、その方だけのベストを模索するという視点です。

この考えを深めるきっかけになったのが、“香り”から得たインスピレーションでした。香りの世界では、「ノート」と呼ばれる香りの要素を複数組み合わせて、全体として調和した“アコード”を生み出します。たとえば、爽やかなトップノートからやさしいミドルノート、そして深みのあるラストノートへと時間とともに香りが変化し、その全体像が一つの“体験”をつくり上げます。調香師はテクニックだけでなく、使う人との対話や、そのときの気分や状況に寄り添う感性を大切にしながら香りをデザインしていきます。

私は、歯科医療にも同じような“アコード”の発想が応用できるのではないかと考えました。患者さんが思い描く理想の口元や笑顔は、決して数値だけで測れるものではなく、その方が大切にしているイメージやストーリーが必ずあるはずです。そこに私の知識や経験、そして感性を織り交ぜることで、「科学的に正しい」だけでは終わらない、一人ひとりに合わせた調和のとれた治療――言い換えれば“臨床のアコード”を描き出すことが目標です。

歯科臨床は、科学的根拠や効率性が欠かせない領域です。それを踏まえたうえで、患者さんそれぞれの“いま”に向き合い、私自身の等身大の感覚も大切にしながら治療を組み立てる。どんなに技術が進化しても、このヒューマンタッチこそが真の価値を生むと信じています。さらに、人類が積み重ねてきた豊富な知識や経験――その“財産”を活用しながら、患者さんごとに異なる個性・感性を融合させて初めて、“その人だけのアコード”が完成するのではないでしょうか。

調香師が香りの要素を時間軸に沿って組み合わせ、全体のハーモニーを作り上げるように、歯科治療も、事前のカウンセリングから実際の処置、そしてアフターケアに至るまで、段階的なアプローチを重ねて総合的な体験を完成させていきます。私がめざすのは、効率を重視するだけではなく、患者さん一人ひとりの多様性やそのときどきの状況と呼応した“オーダーメイドのアコード”です。

このお話が、あなたにとって「香り」という意外な世界と歯科臨床をつなぐ新しい視点の入り口になれば幸いです。私自身、これからも未知との出会いを大切にし、自分の感覚と知識を育てながら歩み続けたいと思っています。皆さんの人生において歯科治療が少しでも豊かな体験となり、心からの笑顔につながるよう、私なりの“アコード”をお届けできれば幸いです。